長崎家庭裁判所 昭和34年(家イ)175号 審判 1959年11月04日
申立人 木原清一(仮名)
相手方 木原ユミ(仮名)
主文
事件本人両名は、いずれも申立人の嫡出子でない。
理由
一、申立人は主文と同旨の調停を求め事件の実情として次のとおり申述した。
(一) 申立人と相手方とは昭和一七年五月八日婚姻し、その間長女文枝、二女としえを出生したのであるが、相手方ユミは、昭和二五年一〇月頃無断家出し、一ヶ月後帰宅したところ、同年一一月頃再び家出したまま所在不明となつていた。
(二) ところが、申立人は最近必要があつて自己の戸籍を取調べたところ、その戸籍に申立人と相手方ユミとの間に昭和二八年四月二二日出生した三女として明子、昭和三二年二月二日出生した四女としてゆきえというものが記載されてあることを発見した。しかしながら、前記のように申立人と相手方とは昭和二五年一一月以降相手方が家出して所在不明となつたため、全然夫婦関係をもつたことがないので、相手方が申立人の子を分娩する筈はなく、前記事件本人明子、ゆきえはいずれも申立人の嫡出子でないことが明らかである。
そこで、本件調停の申立をなすものである。
二、筆頭者申立人の戸籍謄本によると、事件本人明子ならびにゆきえがそれぞれ申立人と相手方との間に出生した三女、四女として記載されてあることが明かである。
ところが、当庁調査官平野英二の調査報告書(陳述者申立人木原清一、木原クミ)並に当裁判所の福岡家庭裁判所小倉支部に対する調査嘱託に基く同庁調査官宮村孝の調査報告書(陳述人相手方木原ユミ並に参考人川田公雄)の各記載その他一件記録を綜合すると次のような事実が認められる。すなわち、
(一) 申立人と相手方とは、昭和一七年婚姻し、その間長女文枝と二女としえが出生し、申立人は大工として働き、相手方は日雇に出たりして生計を維持していたが、相手方は昭和二五年一一月頃申立人と右子女を見捨てて無断家出した。
相手方は、その後一時長崎市内で女中をして働いていたが、間もなく佐賀県東松浦郡○○○村に赴き、同村で豆腐屋を営む山村光一郎方で稼働中昭和二六年秋頃より右山村との間に情交関係を生じて姙娠した結果、昭和二八年四月二二日事件本人明子を出生したが、これを申立人の三女として届出た。
(二) 相手方は右明子出生後○○市に赴き同所で昭和二八年五月初旬より川田公雄と同棲するにいたり内縁関係を継続するうち姙娠して昭和三二年二月二日事件本人ゆきえを分娩したところ、これを再び申立人の子として届出をなすにいたつた。
(三) 申立人は、今回前記長女文枝が申立人の実姉クミと養子縁組をなすにつき、昭和三四年二月一六日申立人の戸籍謄本を取寄せた結果前記のように事件本人両名が申立人の子として届出てあることを始めて知つた。以上の諸事実が認められる。
そこで本件調停につき昭和三四年一〇月二三日当裁判所で開かれた調停期日に申立人は出頭したが、相手方は貧困で当裁判所に出頭する旅費に窮し、かつ、不具(盲目)の内夫(前記川田公雄)と生活していることを理由に出頭しなかつた。そして前記調査の結果に徴すると、相手方は目下右不具の内夫と幼児をかかえ生活扶助を受けて生計を維持している状況で、今後も本件調停のため当庁まで出頭することは極めて困難な事情にあるものと認められるので、調停委員会の調停は成立しない。
しかしながら、前記認定によれば事件本人両名が申立人の嫡出子でないことは明かであるから、当裁判所は調停委員会の意見を聴き当事者双方の一切の事情を斟酌し、家事審判法第二四条により主文のように審判する。
(家事審判官 斎藤平伍)